処理的思考手順は今まで述べてきたとおり、あくまで思考という概念を
「認知」
↓
「分析」
↓
「選択」
という限定的な処理として操ろうとするものです。
すると、ここで言っている「分析」とは要するに
「一定の根拠や推測から導かれる選択肢を挙げること」
に他なりません。
分析の目的は結局のところ
「採り得る選択肢を挙げる」
ということです。
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フレームワークの出番
そして、その具体的な方法論こそ、たいてい私たちが通常の意味で
「フレームワーク」
とか呼んでいるものです。
思考における「分析」の段階は、多くのフレームワークが活用できる中心的な領域です。
あるいは、分析の段階に限らず、すでに「認知」の段階で有効な思考法とか、最終的に最善の選択肢を判断するための「思考法」というのもあるでしょうし、そのすべてを含む流れを決めるために用いるのに適した思考法というのも当然存在します。
思考法という言葉そのものがある意味どうにでも取れる言い方なのですが……そもそも、その思考法やフレームワークを
「思考手順の中のどの段階で使おうとしているのか?」
という点からして混乱する場合もあります。
とにかく、思考の全体像は結局それら一般に言うところの「思考の方法論」を必要十分に、適切にカスタマイズしたような様態になるはずで、そのカスタマイズというのはそれ自体がさらにメタ的なものだということになります。
思考法はなぜ有効に機能しないのか
ところで、私たちは時々「〇〇思考法」というような本を読んだりしますよね?
あるいは、自分がやっているビジネスの関連する、いわゆる
「フレームワーク」
というのもいくつか知っているでしょう。
研修などでそういったテーマについて聞いたりする機会もあるかもしれませんね?
けれども、結局それがあまり活かされずに終わっていることも案外多かったりしますよね?
思考に関する知識はたくさん増えるのだけれども、実践に活かせていないというような状態がけっこう起こります。
で、あらためてそれはなぜかと考えると
「そういったものは、思考手順の要素にすぎないから」
だと言うこともできるでしょう。
言い換えると、個別にフレームワークや思考法といったものを知ったとき、そのさらにメタ的な観点が欠けていると、それだけを絶対化しようとしたり、それに限りなく汎用性を持たせようとしたりするので無理が生じるわけです。
個々の思考法とかフレームワークというのはどれも、実はオール・オア・ナッシングで取捨選択するようなものではありません。それ単独ですべての物事に完全に当てはまるわけでもありません。
また、思考法といったもの自体が常に流行りすたりを繰り返しています。今後さらに新たな「考え方」が現れる可能性だって常にあります。
結局……問題はそれらの要素をどう組み合わせるかということです。
それには、それ自体をさらにメタ的に把握する必要があるのです。
全体から俯瞰する
処理的思考では各概念をできるだけ厳密に区別(絶縁)することによって知識や情報の行き先を素早く明確に選別することを目指します。
その際、それに対して適切な思考法やフレームを当てはめることになりますが、おそらく、その最も適した組み合わせは問題の種類や性質によって異なることでしょう。
ただし、だからといっていちいち問題に直面してから「組み合わせ方」を考えるというのではなく、実際には自分にとって既知の
「あらかじめカスタマイズされたパターン」
を何種類か持っているだけで思考に伴う負荷はかなり軽減されるでしょう。
……より多く、より高度な判断場面が発生する現代において、重要な視点は
「特定の個別の問題に対処する力」
もさることながら、それらに対処する方法論を適切に組み合わせたりカスタマイズしたりする力こそ不可欠だという点です。
けれども、そのためには自分が得た思考法やフレームワークを要素とする、よりメタ的な把握が前提的に必要だと思うのです。