思考という概念を

「認知」

「分析」

「選択」

という一種単純な処理だと定義すると、ここまで考察してきたのは主に「認知」に関するメタ的な問題ということになります。

そこで私たちはまず思考と言えるものと、そのままでは思考とは言えないものを絶縁したわけです。

で、それを踏まえて知識や情報の選別の基準を明確にして、思考にとって必要と思われる情報の絶対量を減らすことが軽量化に直結するというのがここまで述べた主な考え方です。

分析とは処理である

すると、ここで次には

「分析」

が問題になってきます。

しかしその前に……パッケージ・タスクがそうであるように、そもそも解法さえうまく見つかれば分析そのものはほとんど処理的、作業的なアプローチでこなすことができることになるでしょう。

たとえば、一見どんな難解な数学の問題でも、それを解くために用いるべき手順や定理などが明確に与えられた状態でそれに回答するだけなら、だれでもすぐに答えることができるわけです。

極端に言えば、もしそれがあらかじめ提示されているならすべての数学は単なる計算問題と同じになってしまうでしょう。

つまり、分析というのは必要な解法や定理が与えられているかどうか、また本人がそれを知っているか、理解しているかということが主要な問題になります。

数学とか、学校で与えられる課題や問題と同じように、日常私たちが直面するさまざまな課題についても仮に初めから解法(分析の仕方)が見えていればごく簡単に処理できるでしょう。

もしあなたがすでに解法を知っているならば……思考というのは限りなく単なる処理というイメージに近くなるはずです

思考という行為を階層化する

ここで、特定の個別の事柄に対する思考ではなくて、そもそも思考という行為一般についてよりメタ的に捉えた場合の、汎用的な

「ものの考えかたの型」

と言えるようなものを

「思考手順」

と呼んでみます。

一般的には「スキーマ」とか「思考回路」とか言うのに近いイメージですが、具体的な内容を捨象したもっと単純な「形」だけをイメージします。

すると、実は今までの記事で言っていた

「認知」

「分析」

「選択」

という思考の雛形というのは、実は思考そのものをかなり単純化した、純粋に処理的なイメージにしていることになります。

なので、これを

「処理的思考」

と呼ぶことにします。

ただし、本当言うと思考というのはもっと多様な目的や方法論が考えられますし、主観や感情をまったく度外視して良いものとも言えないわけですが。

しかし、あえて処理的にするとこうなるということです。

……で、いったんまとめますと

まず思考の仕方というものを

「思考手順」

と呼ぶとして、それには大きく2種類の方向性が考えられ、このうち

① 処理的思考

については高速化、軽量化が問題の重点になるため

「認知」

「分析」

「選択」

というふうに手順を明確に限定した上で、それに直接関係しない「思考遊戯」や「耽り」「悩み」といったものをできるだけ排除する方向に収斂してゆくのが効果が高いという考え方をしました。

その意図が明確で、さらに実践と経験にさらされてそれが強固なものになっていけばおそらくあらゆる思考が軽量化できます。

別の言いかたをすれば、パッケージ化できる事柄が増えて思考が楽になるのです。

このように、個別の問題の発生した経緯や内容によらず、まずかなりメタ的に思考というものを切り分ける作業が有効だと思います。

もちろん思考手順というもの自体が常に更新されたり再検討されたりすることも長い目で見れば必要なことです。

それはそれでおそらく半永久的に続けなければならない作業のひとつには違いないのです……ただし思考手順そのものを修正したり吟味したりするのは典型的なメタ思考ですから、少なくともそれを個別の事柄を思考している最中に行わないほうが良いわけです

冒頭述べたように、私たちは往々にして個々の問題が発生してから、その問題について思考する場合の思考の仕方についてメタ思考してしまう傾向があります。

「こういう考えかたで本当によいのだろうか」
「私の判断は見当違いなのではないか」

といった疑念や想念が湧き起こったり、今現に存在しない方法論について思いを巡らせてしまったりするわけです。

もちろん思考の過程で

「あ、こうすれば簡単にできるじゃん」
「このほうがいいんじゃないか?」

という次元でメタ的に問題を見ることは有効な場合も多いです。

私たちは特に、すでに慣れ親しんでいる範囲の問題についてはそのようにしても大きな負荷を感じませんよね?

けれども、それをあらゆる問題や、あらゆる情報に対していちいち無差別に行ってしまうことが私たちにとって超負荷となる時、それは肝心のその問題に対する思考をかえって妨げる要因になってしまう場合も少なくないのです。

たいてい、思考する内容自体に慣れていないときほどその傾向は強くなるでしょう。

その結果私たちはいつも考えるべき事柄の優先順位があいまいになって

「これは、どうやっても無理なんだ」

など諦めてしまったりする原因にもなってしまうのです。

大切な問題ほど分けて思考する

もちろん、自分にとって非常に重要度の高い問題などの場合には

② 総合的思考

を用いるという話になるわけですが、ただし……大切な事柄ほど、別の何かについて緊急に考える必要がないときにじっくり考えるほうがよいはずです。

……ということは、むしろ慣れていない思考に着手する余裕を得るためにこそ、自分の根本的な価値観といったものにそれほど関わらない日常的な情報処理や判断のほうを、より実用的で軽量化された思考手順によって処理するという一種の「芸当」が有効です。

だからメタ思考は必要不可欠なものだとしてもこれを自然の成り行きに任せてランダムに行う習性は放置すべきではありません。

ただ、逆に言って、自分にとって非常に重要な問題だからといって

「じっくり考えよう」

……と思う場面であっても、いったん処理的思考の手順に沿って考えてみることも有効なことが多いと思います。

よく指摘されるように変化の激しい社会環境では

「過去の経験が通用しない」

場合があります。それどころか経験に頼った方法はむしろ弊害になることさえ珍しくはありませんね。

過去の成功体験や盲目的な繰り返しを意識的に排除しなければならない場面が多くあります。

たとえばこのような状況の時にも、思考という行為そのものをメタ的に区別して、多くの場合まず純粋に「処理的な思考」によってアプローチしてみると有効な場合が多いのです。

よって、ある側面から表現すれば

② 総合的思考

をする必要があるのは、単に自分にとって大事なことだから……とかだけではなくて

① 処理的思考

によってはうまく処理できなかった場合……と考えることもできます。