たとえば自分にとって決定的に重要な事柄だと思うようなことを、単に処理的に思考して構わないのでしょうか?

私たちには

「じっくり考えるべき問題」

というのがあるはずです。

それに、日常的に起こる問題にもいろいろな重要度のものがあり、都度与えられる情報にもいろいろ種類があります。

なるほど雑多、些末な事柄にあたる時には処理的な思考が有効かもしれません。けれども、私たちにとって人生はそれだけに頼って無事に過ごせるほど単純なものではないのです。

思考の手順を区分する

それに、大切だと思う問題というのは単にうまく処理できればいいのではなく、自分が主観として納得でき、満足できるかどうかということが大事でしょう

こういった種類の事柄まで、その他の煩雑な問題と同様の思考手順で処理しようとするのは、むしろ合理的とは言えないのではないかと思います。

そうかと言って、前から言っている通り自分の思考手順が都度、個別の経緯やその内容によっていちいち左右されるのも非効率で煩わしいというのも確かです。

そこで私は思考手順を

① 処理的思考手順
② 総合的思考手順

というふうに二本立てでイメージすることにしているのです。

総合的思考に関する課題

処理的思考と対峙する意味で、総合的思考という場合にはまず

① その思考に対して自分自身が信頼感、納得感を持っている

ということが非常に重要です。

理念から言えば……その人の思考を決定づけるのは、まずその本人のアイデンティティです。

その人の思考というのは、方法論として最適かどうかということ以前にその人の自我意識とか価値観、根底にある欲求といったものを適切に反映しているはずだし、そうであることが重要でしょう。

また、当たり前ですが、その人が行う思考や判断はいかなる他人の意向や権威、圧力からも本質的には自由であるべきです

だから総合的思考という場合には、たとえば

「それが他者も受け入れやすいものか?」
「汎用性のあるものか?」

といったことは実はあまり重要でないとも言えます

また

「単純か複雑か」
「高尚か素朴か」

……なども根本的な問題ではありません。

そして、総合的思考手順についてもうひとつ求めたいのことは

② ある程度長期的に安定していること

です。

人のアイデンティティや価値観というのは、もちろんごく長期的に観察すれば変化や推移があるだろうけれども、単なる気まぐれとか、都度の欲求や環境などの影響によってコロコロ変化してほしくはないものでしょう。

それには、より深い自己認識や、ある種の学習や訓練、そして人格的な醸成、成長も必要になるでしょう。

その前提では、そもそも総合的思考とは、ある一定の形に安定するまでにはそれなりの時間を要するものでしょう。

そして、それは将来にわたっても常に収斂され、さらに熟成されていくべきものでしょう。

ところが、現代は情報過多の上に既存の価値観が急激に変化したり、社会全体の形式や体制そのものが大きく揺れ動いている時代と見えます。

「パラダイムシフト」
「モラルハザード」

といった言葉が当たり前に飛び交う世の中になっています。

すると私たちは今、外界の変化に適応しつつも、同時に自分自身の唯一性や安定性、持続性を保たなければならないという一見相反する要求を突き付けられているような状態にあるということになります。

今までのように単に経験や過去の信念からくる固定的な方法論や、一貫した主義主張といったものだけですべての事柄に対応しようとする態度では無理が生じるかもしれません。

そうかと言って都度の状況に対症療法的に反応しているのでは右往左往することにもなりかねません。

なので、大まかなイメージですが、

「総合的思考を状況の支配から温存しつつ

一方で

「状況に適した処理的思考を駆使できる」

という状態が最も有効に思えます。

つまり本質的思考は

③ 処理的思考と連動して機能する

ように意識すべきということになるでしょう。

思考手順の役割分担

比喩的に、軍隊みたいなものでいえば、総合的思考とは全体を指揮する司令塔、あるいは主力部隊のようなものです。

それに対して、処理的思考とは前衛部隊とか、場合によっては個別の作戦上編成された特殊部隊というような位置づけになるでしょう。

それぞれに役割があり、与えられた指令の範囲で機能するわけですが、原則として

「すべての敵に対していちいち総力戦をしかける」

というようなやり方は実戦上ほとんどあり得ないでしょう。

仮に前衛部隊や特殊部隊が打撃を被っても全体の指揮系統は保たれ、戦略は立て直すことができますが、もし主力部隊が直接に攻撃され、司令塔が壊滅されることは全体の壊滅を意味します。

もうひとつ比喩的に言って、たとえば自分のアイデンティティを確立するとか、自分にとっての中心的な価値観を明確にするとかいうようなこと自体を目的とする場合、そのために行われる思考もそれ自体が

「総合的思考」

の側に属することになりますが、そこではその思考というのはいわば自分にとっての

「憲法を制定する」

のような行為にあたるでしょう。

しかし、憲法というのはどちらかというと理念的、理想的な意味が強く、それだけでは実際のところ社会での機能を果たすには不十分なものです。

だから、現実にはその他の法律、政令、条例などが必要に応じていろいろ作られているわけですよね?

そこで、仮に学校で習う時のようにある意味模範的に考えるならば……一国の法律の体系は当然まず憲法がきちんと存在していて、すべての法令はそれに基づいて完全に整合する形で構築されるべきだと言えます。

理屈から言えばそれが望ましい状態です

ところが現実を見れば……法令などというものはいつも社会の実体や特定の関係者の利害、あるいは圧力や思惑なども含めた個別の事情から起案され、けっこうバラバラに作られているようにも見えますよね?

むしろ、それがあまりにバラバラになってしまわないように、それらをどうにか調整して一定の整合性を保とうとするときに引き合いに出されるものこそ憲法なのであり、実はそちらのほうが憲法の実質的な役割ではないかという言い方もできるでしょう。

理想と現実とは非なるものであるのが常です。

総合的思考と、処理的思考の関係もこれに近いものがあります。

理想的なイメージとしては、総合的思考が現に確固として明確に意識されていて、それに基づいて個々の判断や行動の選択がなされるべきだという気がします。

それが正しい「思考」だというふうに思いやすいです。

けれども、実際にはこういうイメージはすごく観念的なものでしかありません。

多くの人は今置かれている環境や周囲の事実関係に巻き込まれて思考せざるを得ません。

そうでなくても情報というものは求めずともいつも勝手に入ってきます。

だからこそ、私たちが思考に関して整理して考えようとすれば、たいていまず目下の対象となるのは処理的思考手順の構築、そしてそれをどのように駆使するかという課題のほうなのです。

それがある程度保障されて初めて、今度は総合的思考手順の確立とか維持とかを問題として認識することができるわけです。

……私たちはともすると、本質的な思考などする余裕がぜんぜんないままに過ごしていることも少なくありません。

処理的思考を駆使する

総合的思考について考える前に、まず処理的思考手順を駆使できることが思考を円滑に進めるための基本的な戦略です。

なので、すべての問題について本質的な思想や価値観に照らして根本的に、究極的に考えようとすることを回避してきたわけです。

総合的思考を自ら意図的に構築してそれを安定させるにはむしろまず多くの雑多な問題を素早く処理する方法論を身に付けることが近道です。

またそれだけでなく、私たちは現実の生活においてはもちろん

「他者と協調すべき場面」
「自分の主張を控えるべき状況」

あるいは時には

「圧力や他人の意思に迎合せざるを得ない場合」

だって実際たくさんあります。

そこでいつも

「自分は……」
「本当は……」

といって悩んだり耽ったりしているのは実はあまり意味がない行為です。

さらには、そういった意識を過剰に反映させようとすることが無用な衝突や心理的葛藤を生んで

「悩み」

が増えることにもつながるでしょう。

これらは、結局のところすべて

「自分の本質的思考を阻害する要因」

として働いてしまいます。

だから処理的思考で済むものは、まず処理的思考によって処理する……というのが第一命題なのです。