人間の意識には
「潜在意識」
と
「顕在意識」
がある、という話は今ではもうごくふつうの話になっていますが、でも本当を言うと、
「潜在意識とは何か?」
って聞かれたら自信を持って答えられる人はどれくらいいるでしょう?
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私たちがふつう「意識」というとき、それはもちろん
「顕在意識」
のほうを指します。
顕在意識については、ふつうの意味では迷うことはなく、だれでもごく自然にイメージできますよね?
しかし、潜在意識となると、とたんに
① 訳の分からないもの
② 自分でも掴みどころがないもの
③ 本当のところ あるのかないのかも分からないようなもの
という感じになってしまいます。
潜在意識を使え、と言うけれど
そもそも潜在意識というもの自体がそのようなものなのですから
「潜在意識を使って~しよう!」
って言われても……ふつうは困ってしまうものです。
これは、たとえるなら……職場に配属されてきた若い新人社員さんが、いきなり
「じゃ、仕事して!」
と言われているようなものです。
「はい、仕事しますけど、でも……仕事って何ですか?」
みたいな。
潜在意識を説明するとき「たとえ」を使う理由
潜在意識とは何かを説明しようとするとき、私たちはよく「たとえ(比喩)」を用います。
そうすると、イメージが湧きやすく、分かったような「感じ」になるからです。
たとえば、私なりのイメージとして潜在意識をたとえるなら、それは
「言葉がほとんど通じない外国人のようなもの」
です。
なぜなら、多くの自己啓発本や成功ノウハウによると、潜在意識に言うことを聞いてもらうためには、こちらの(顕在意識の側の)意向を何度も何度も根気強く伝えなければならないから。
そして、そうしたとしても、潜在意識というのは言葉の細かい文法とか分からないし、行間を読んだりもしないので、ごく大まかな単語の意味と、あとはこちらの表情や態度(つまり、感情の強さや熱心さ)から、
「ああ、だいたいこんなことを言おうとしているのだな」
という程度にしか理解しないから。
また別の情報によると、潜在意識とは、たとえるなら
「あなたを心から愛してくれている、親友、もしくは恋人のような存在」
です。
なぜなら、潜在意識は24時間いつもあなたのことを気にかけていて、あなたがバランスを崩したり危険な目に合ったりしないように陰で支えてくれているから。
また、あなたが気まぐれに危険なことを試みようとか、既知の範囲から抜け出して知らない世界に冒険しようというような、よからぬことを実行したりしないように常に見張っていて、そんな時には本気で止めてくれるから。
また別の側面から言うと、たとえるなら
「顕在意識は船長さんで、潜在意識は他の乗組員のような存在」
という説明もあります。
なぜなら、自分の行く先、つまりあなたが想定する目的や計画などを明確に定めるのは顕在意識の役割であって、潜在意識のほうは、その行く先がどこであろうとそれに口出しはできませんから。
潜在意識は、そんなことはお構いなしにただあらかじめ割り振られた自分の役割を淡々とこなすことが仕事だから。
「顕在意識は経営者であり社長のような立場にいて、潜在意識は従業員のようである」
とたとえることもできますね。
顕在意識までが一般の従業員のように受け身の思考だと、その人間はもはや主体的に生きる術を失う……と言うこともできます。
最近だと、人間の脳をコンピューターにたとえる場合も多いです。
たとえば潜在意識というのは
「アプリケーションを動かすための、OS(Operating System)のようなもの」
とか。
オペレーティングシステムというのは、パソコンとかで、さまざまなソフトやアプリを機能させる前提となる基礎的なプログラム。たとえばWindowsとかMacとかのことです。
つまり、私たちの意思とか判断というのは、潜在意識という基本プログラムに制御されており、その条件下でしか機能できないというような意味ですよね?
飽きてきたと思うのでこれくらいにしますけど……他にも、たとえば
「潜在意識とは、自分の内にある神様のようなもの」
「背後霊とか、守護霊のようなもの」
「宇宙の偉大なる知恵を受診するアンテナのようなもの」
「もう一人の自分のようなもの」
……と、さまざまに言い表すことができます。
ちなみに、それは「たとえ」じゃなくて、本当に実際そうなんだ! ……という話になる場合もあります。
あくまで「たとえ」とみなす場合と、そうじゃなくて「実態」「事実」だとみなす場合とでは論点が変わってきますから、そこをあいまいにしていると混乱しやすいので気を付けましょう。
私が「潜在意識じゃない」と思うもの
ところで、以下は別に客観性や専門性のある見解ではなくて、あくまで私の個人的な解釈によるイメージなのですが、一般的に「成功哲学」や「自己啓発」の情報にしばしば出てくる
「潜在意識」
に関する説明の中で、私が思うには
「これって本当に潜在意識のことなの?」
と疑いたくなるようなものが時々混じっているような気がしています。
というか、そもそも「潜在意識」という言葉は、学術的に明確に定義されている専門用語ではありません。おおよそは「無意識」という用語とほぼ同じ意味だとみなされることも多いですが、諸説あります。
一応の区別をするとすれば、いわゆる潜在意識と呼ばれる範囲に入ってくるものとは、
① 肉体的感覚、自律神経機能、不随意運動
② 本能、生理的欲求
③ 先天的能力、前提的な構造
④ 思考パターン、自動思考
⑤ 習慣的行動、手続き記憶
⑥ 一般的意味での記憶、概念
⑦ 二元論的な精神、霊、魂
などです。だいたい、このうちのどれか、あるいはこれらが混同、混在して「潜在意識」だということになっていると思います。
で、もちろん解釈のしかたはいろいろありますが、あえて排除するように考えるなら、まずこのうち
① 肉体的感覚、自律神経機能、不随意運動
というのは、たとえば
「痛い!」
「熱い!」
という具合に結果的に意識上にも現れますが、その原因となっているのは身体のさまざまな器官が受ける刺激です。だからふつうの意味ではこれは「反応」あるいは単に「運動」であって「意識」とすら呼べない、と言えます。
同じ理由で
② 本能、生理的欲求
というのも
「眠い」
「お腹すいた」
「トイレ行きたい」
とか「思う」わけですが、これは「意識」なのかと……ちなみに、最近よくいわゆる
「ホメオスタシス(恒常性維持機能)」
というのも狭義で考えれば①か②に属する働きとも言えます。だとすると潜在意識と呼べるのかと疑問を持っても不思議じゃないでしょう。
次に、
③ 先天的能力、前提的な構造
というのは、ちょっとイメージしにくいかもしれませんが、いわば
「そうなることが初めから決まっているようなもの」
のことです。哲学チックに言うと
「ア・プリオリ」
なものです。
たとえば、ふつうに考えて(特に欠損や疾患等がない場合)
「赤ちゃんは、いずれ立ち上がって、歩き出す」
ことは、赤ちゃんの意思とか願望とかを考慮しなくても、初めから想定できますよね?
「人間が、言葉を話せるようになる」
のもそうです。本人は自分で学習して、いっぱい勉強してここまで覚えたという実感があるかもしれませんが、傍から見たら、時間が経過すればほぼ絶対にそうなるほうが当然で、そうならないほうが例外です。
ちなみに、言葉とか文法とかを構成している「構造」自体もそうです。
それはある面では人間が発明して、今の複雑なものにまで発展させてきた、と言うこともできますが、別の見方をすると、初めからそういう構造にせざるを得ないというのは決まっていて、ただ人間はその構造に沿ってしか言語を発達させることはできなかったから今の形になっている……っていう言い方も成り立つわけです。
これは、人間が行う「判断」とか「思考の展開」全般に当てはめることも可能です。
私たちが
「今日の晩御飯は何にしようかな~?」
ということを「思考」する場合でも、それっていうのはそもそも自分がすでに知っている有限の選択肢からしか選べません。そして、それを選ぶ際の条件というか、実際何を判断材料としてそれを考えるのかは、あらためて思いだすと、だいたい決まっています。
「昨日はアレだったし」
「アレはこないだ食べたばっかだし」
「そう言えばテレビで見た」
「うちの子はアレ大好きだから」
みたいな?
あなたがそのような手順で考えることは初めからほぼ決まっているはずです。
ということは、はっきり言って、本人は自分で考えたように思っているけど、実は、今日の晩御飯がそれになることは、構造的には
「初めから決まっている」
かもしれないわけです。
そうなると、人間はいったいどこまで自分の意思で「ものを考える」ことができるのか?
……といった問題にもなりますが、いずれにしろ、ここで言っている「構造」というのは、それ自体が最初からあらかじめ決まっていたということです。
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④ 思考パターン、自動思考
もちろん、思考の基準とか、流れというのは意識的に変えることもできます。
また、今まで知らなかった新しい知識や情報があれば、それを取り入れることによって変化します。
(それすらアプリオリな構造であると主張することもできるわけですけど。)
でも、仮に人間は自由意志があるので、意識すれば既存の枠を飛び越えてでもある程度自由な思考や発想は可能だという前提に立ってですね。
だとしてもです。
私たちは、逆に言うと、特にそれほど重要視していない事柄の時は、そこまで意識的に思考しないし、ましてや自分の思考のしかたを厳密に振り返るというような「意図的なメタ思考」をする機会もそんなにないです。
それ以外は、だいたいいつも、それを考える際にたどる「思考の経路」みたいなものができていて、いわばそれを
「なぞっている」
だけ、という場合が非常に多いですよね?
ふつう、こういうのを思考回路とか、思考パターンと呼びますが、これは先天的なものとは言わないとしても、経験上獲得した「構造」に従っているということはできます。
すると、さっきと同じで、それは単に構造に依拠して「処理的に」ある結論を導き出しているということです。
で、この構造、あるいはこの処理のことを「潜在意識」と呼ぶかどうか?
……と言ったらちょっと腑に落ちないわけです。
⑤ 習慣的行動、手続き記憶
この、
「なぞる」
という部分に注目すると……私たちが特に意識せずに行っている日常的な行動や、いわゆる
「手続き記憶」
というのも、そもそも「意識」と言えるかどうか?
また、それにいちいち「意識」が介在していると言えるか?
……という疑問が出てきます。
「手続き記憶とは、長期記憶の一種で、技能や手続き、ノウハウを保持するもの。手続き的記憶、非陳述記憶、技能記憶、連合記憶といった名称もある。手続き記憶は意識しなくとも使うことができる、いわゆる「体が覚えている」状態である。例として、自転車の乗り方の練習、タイピングの練習、楽器の練習、水泳の練習」
―Wikipediaより(抜粋)
さらに、
⑥ 一般的意味での記憶、概念
これは、人が思考する時の「材料」になるものとも言え、顕在的であろうと潜在的であろうと、私たちはそれらを使って思考しているのであって、それそのものは意識の働き(機能)ではないし、まして
「意識そのもの」
でもないという気がします。
潜在意識として、最後に残るもの
今までの話は、もちろん「なるべく排除的に考えた場合」のことですが、仮にこのようにどんどん削っていくと、結局のところ、純粋に潜在意識だと言えるものは何が残るかというと
⑦ 二元論的な精神、霊、魂
くらいしかない……という話になってしまうのです。
しかし、それすらも
「霊とか、魂とかいうものが、それだけでも主体的に思考する能力とか、発想や感性や感情のようなものを持っている」
と仮定した場合の話です。
潜在意識それ自体は、自ら思考するか?
……以上のように考えてみると、私たちがふだん
「潜在意識とは、ナントカナントカ……」
と言っているのって、すごくあやふやな前提に立って話しているような気がします。
潜在意識というのは、(特に、自己啓発本とかたくさん読んでいる人なんかにとっては)すでにその存在が自明のものというような感覚があったりもするわけですが、実は思っているほど確かなものでもない……のです。
繰り返しますけど、ここに書いてるのは私の個人的なイメージであって、学術的な根拠とかないですからね?
なので、判断はお任せします(し、私は別に潜在意識なんて信じないほうがいいよ~とか言いたいんじゃないですからね)。
しかしその上で言いますけど、私自身の見解では、おそらく
「潜在意識そのものは、別に何も思考してないです」
つまり、少なくとも私たちが意識的に「ものを考えようとする」ようなやり方では思考していない、という意味です。
たしかに潜在意識は独自に何らかの情報処理は行っているはずで、それを思考と呼ぶならば、思考と言えないこともないわけですが……それは私たちがふつうイメージする典型的な「意識的な思考」とはまったく違う、ということです。
先ほども挙げましたが、よく潜在意識とかホメオスタシスに関して
「それはあなたを守るために、一生懸命現状を維持しようとしている。決してあなたのじゃまをしているのではなく、あなたを愛しているからだ。あなたのためを思ってそうしている」
というような解説があります。
ですが、これは(私の見解では)事実として、ではありません。
ただ、潜在意識と言われるものの「機能や性質」や「立ち居振る舞い」を観察すると
「まるで意思を持っていて、その意思に基づいて行動しているように見える」
という意味だと。
自分が「信じやすいように」信じる
とは言え、そのように解釈したほうが分かりやすいという面はあります。
だから、上で挙げたような「たとえ」が多用されることになるのではないかと考えているわけです。
もちろん、別にそう考えたほうが都合が良いならばそれでも構わないわけですが……私は、感覚としてこれは少し違和感があるので、個人的にはこの考え方を採用していません。
「潜在意識そのものが主体的に何らかの意図を持って、意識や行動のほうを制御したり、調整したりしている」
と言い方は、私にとっては「たとえ」なのです。擬人法です。
そして、私の場合には、こういう見解のもとで「潜在意識」に関する話題に触れたほうが、かえって理解しやすいし納得もできるので、そのようにある意味自分の都合で勝手にそう信じているというわけです。