人間は成長するほど、より大きな大局観が求められます。
視野の広さと言うか。
しかし、ふつう大局観を持つには、何らかの
「全体」
というものを想定しなければならず、それが一方ではあなたの大局観を制限するものになってしまいます。
大局観を養う
大局観というものは、ある枠組みの中で予測を立てて繰り返し経験することによって事柄に精通し、考えがまとまってゆくことで得られます。
大切なものですが、しかしそれは同時に自分の視野、範囲をある枠組みに合わせて最適化するということでもあります。
物事の理解を焦って情報の少ないうちに答えを出すクセがある人もいます。
短期的には効率よい面もありますが、長期的に見るとそれだけでは小さく、しかも歪んで最適化されてしまうことになります。
枠組みに依存してしまう傾向
一度最適化された枠組みは、自ら抜け出すことが難しいものです。
これは、どんなレベルの人であっても一様に当てはまります。たとえ、すでに巨万の富を築いた成功者であっても、右も左も分からない新入社員であっても同じことです。
一度固定された枠組みを絶対視すれば、矮小化された目的意識に縛られてしまいそれ以上広がりを持った視点は持ちにくくなります。
行動はさらに制約されます。
人間は誰でも今見えている目標、今抱えている問題意識を最重要で絶対のものだと思い込んでしまいがちです。そう思いたい気持ちを持っています。
基本的に、脳はいつも早く答えを出したがっているものです。
これは、ある意味ではパラドックスのようなもので、大局観を養うことが、結局はその先で視野を狭めて大局観を失うという話になってしまうのです。
「ゴール」は終点ではない
そもそも、すべてを知り尽くしたという状態になどなるはずがません。それは幻想です。
いつも
「まだ先がある」
という前提で物事を考えなければならません。
成功も失敗も常に暫定
過去に成功体験があると、その成功した事例に従って自分の思考の枠組みや価値観を最適化しようとすることがあります。
単に、ひとつの方法論に固執するというだけでなく、その成功体験を中心にものの見方や考え方の全体を固定してしまうわけです。
過去の失敗についてもそうです。
あの大学に入れなかったら負け組み。
こういう仕事に就けなかったら何の価値もない。
この資格を取らなかったら何にもできない。
あの人に嫌われたら生きていけない。
自分に残された道はもうこれしかない。
こんなふうに、過去の特定の結果が、自分の人生を決定的に固定してしまったと考える人もいます。
そして自ら閉ざされた道に自分を追い込んでしまうのです。
実はそう判断しているのは単に自分自身の主観なのですが、これこそ最悪な選択なのです。
ゴールは次のスタート地点にすぎない
後で考えてみると、なぜそんな狭い視野に自分を追い込んでいたのかと自分でも不思議に思うようなことが実際にあるでしょう。
しかし、その時点ではそれは絶対に動かしがたい「確定事項」に思えてしまうのですね。人間はそれだけ何事にも執着しやすいものなのです。
「ゴール」という言葉を履き違えてはいけません。
多くの人にとって
「ゴールを絶対化すること」
は両刃の剣となります。
たしかに、自分でゴールを定め、それに向かって真摯に努力するというのは悪いことではありません。
でもゴールというのは
「それで終わり」
ということを意味するものではないのです。
ゴールというのが、それそのものがもっと大きな大局観で見れば中継地点に過ぎないと知るべきです。
枠組みを作ることが大切なのではない
あるいは、社会の風潮や周囲の雰囲気に流されて、大きな夢や人並みの目標を語らなければならないと思い込む必要もありません。
人生とは、自分にとって究極的な目標を早く特定した人が勝ちというゲームではないのです。
自分にとって何が対局なのかを探し求めることよりも大切なことがあります。
それは、今すべき決断を、その都度一つひとつ自分で行うということです。
たとえば
「今自分に与えられたこの課題を120%の完成度でやろう」
「今いる職場で一人前と認められるように頑張ろう」
「あの上司に、とりあえず一番頼りにされる部下になろう」
「ここで得られるノウハウを全部吸収してやろう」
「今自分が置かれている環境を、こういうふうに変えてやろう」
あなたはたぶん、こういうのは究極的なゴールだとは思わないでしょう。
そこで多くの人は
「それがいったい何の役に立つのか?」
「それはどんなゴールへと続いているのか、それとも続いてはいないのか?」
と考える。
それがあらかじめはっきりしていなければ
「頑張る意味がない」
と考える。
「一生機延命やるだけ損だ」
と感じるわけです。
決断し続けることで先が見えてくる
上で挙げたような例は、ゴールとは呼ばないかもしれませんが、でもそれをするには一定の覚悟というか
「決断」
が伴います。
こういう決断はあなたにとってゴールと呼ぶには現実的過ぎるでしょう。しかし、大きな夢を語ろうと語るまいと、自分にとってのゴールに続いているのだと先に自覚していようといまいと、長い目で見れば、そもそもこのようにして決断し、それに向かってまっすぐに進んでゆくことができる人間になること。
それを経なければゴールなど絵に描いた餅でしかないでしょう。
人生は決断の連続であり、そこに大きな夢があろうとなかろうと、本当は関係ないのです。
このような、ある意味で非常に現実的な決断をする力。
さらに、それに向かって真摯に行動できる力。
それを育んだ人だけが、単なる夢や妄想でない、意味のある「ゴール」を語る資格を得るのではないでしょうか。
「夢」のある人がうらやましいか
もしあなたが、こういう力を手に入れたとしたら、他人の語る現実離れした「夢」なんて気にもならないでしょう。
他人がする大言壮語に動じる必要もなくなります。
そこに初めて今立っている自分の姿が見えてくるのです。
他人の語る夢や、他人の評価や、他人の基準や、他人の意向や……そんなものにいちいち反応する意味がなくなります。
夢があるのは悪いことではありません。ただし夢があることが偉いわけではません。
目標を自分で決めることは有意義なことです。
しかし、その目標が達成されたらすべてが終わるというような目標などそもそもあるはずがないのです。
おおよそ目標というのは常に暫定的なものです。
「最終的なゴール」
などそもそも存在しません。
必要なのは夢を探す能力ではません。ましてや、自分の夢が実は空っぽだということを他人に悟られないように「ごまかす」能力でもません。
今あなたが下した決断や目標が暫定的だからといって、不確かな無意味なものというわけでもありません。
自分の発想、思考の外側にはもっと広い世界があります。絶対に。
今あなたの手のひらにのっているものは世界のすべてではありません。
今自分は何を選び取り、何を捨てているにせよ、その外側には常にもっと広い「全体」があります。
これが大局観の前提です。