「この方法で本当に良いのか?」
「もしかすると、ムダな努力をしているのではないだろうか?」
「もっと効率の良い、効果の高い方法があるのではないか?」
「私は、大事なことを知らないまま続けているのではないか?」
……時々、こんな不安が頭をよぎることがありますよね?
いつでも何に対しても不安な人とか、不安神経症のような病気の場合は別としても、自分が信じてやっていることや、このやり方で間違いないと感じていったん決めたはずなのに、根拠もなく迷いや不安が生じる時がだれにでもあります。
そして、たいていの人は、自分が不安を感じているのだから
「何らかの対処が必要だ」
と感じて、対処法を考えます。
しかし、この場合にはそもそも対処法はありません。
というか、端的に言えばその不安に対処する必要はなく、むしろ対処しようとするから問題が生じるのです。
うまく対処する……ではなく、むしろ対処しない
もちろん、思い付いたアイディアや、ひらめきとかインスピレーションとか、あるいは人からもらった有効なアドバイスや新たに聞いたこと、習ったことなどを主体的に取り入れることは悪いことではありません。
なぜなら、それにはちゃんと根拠があるからです。
根拠があることなら、むしろ積極的に調べたり学んだりすれば良いと思います。
また、一定期間ずっと続けているのに、なぜかまったく成果が上がらないといった場合には、その方法論そのものを考え直してみることも必要かもしれません。
いつでも自分の考えを頑なに守り通すことだけが良いわけではありません。
しかし、やり方や考え方は確かにこれで合っているはずなのに、これで良いと分かっているはずなのに……なぜかふと疑念が起こることああります。これは厄介な心理です。
「不安」とは、対象が存在しない心の揺れ
特に何のきっかけも脈絡もなく湧き起こってくる考え。
「もう一度よく調べてから始めたほうが良いんじゃないか?」
「見当はずれなことを続けているのではないか?」
「別のやり方を試したほうが良いんじゃないか?」
というような……。
おそらく、この類の思考というのは、何かを続けていると必ず勝手に湧き起こってくるもので、実際には何の根拠もありません。
何の脈絡もなくふと湧き上がるこんな考え。これは、本当に何か間違っているとか、方法を変えたほうが良いという「気付き」とか「心の声」などではありません。
これは、だれにでも同じように起こる「不安」です。
これは人が意図や意識をもって何かを始めると、その過程で必ず起こる「生理的現象」のようなもので、どんな言葉を伴って意識に現れるにせよ、実際にはこれは意味ある理論的なものではなく、それどころかそもそも「考え」ですらありません。単なる自動的な心の現象です。
つまり、あまり良い比喩でなくて恐縮ですが、たとえば何かを食べたら必ず排泄が起こるのと同じです。
心理学的には、不安という感情は特定の具体的な対象がなくても起こるそうです。いわば、この時に湧き起こる不安というのは実際に何かきっかけとなる経験や情報があったから現れるのではなくて、単に
「もしかすると、そういう何かがあるかもしれない」
という可能性について期待する心の現象にすぎません。もっと言えば、
「もっと良い方法があったらいいのになあ」
という勝手な願望とともに表出する妄想の産物です。
実は、不安という心理は常に期待や願望とセットになっているのです。
根拠のない不安は、感情の「めまい」
ある哲学者は「不安の概念」という本の中で
「不安は自由の眩暈(めまい)である」
と表現しました。
さすが、先の私の比喩よりきれいです……。
「不安は可能性にとっての、可能性としての自由の現実である」
「不安は一つの共感的反感であり、一つの反感的共感である」
と言っています。
とても難しい表現ですが、私流に単純化して言えば
「不安というのは自由だからこそ起こる」
「不安というのは自分の選択に対する心の自然な反応だ」
……というようなことを言っているのです。
この言葉は私たちが何かを達成しようと考えているとき、あるいは何かを習慣にしようと努力しているときなどには
「必然的に不安が起こり得る」
という示唆を与えているのです。
私たちが何かを始めたということは、
「何かを選んだ」
そして
「何かを選ばなかった」
ということになります。
ということは、あくまで可能性としてですが、本当は今実際にやっている方法や手順以外の、どんなやり方でも、どんな考え方でも自由に選ぶことができたわけですよね?
でも、その内の(自分なりに最も妥当で、正しいと思われる)ある一つのやり方、考え方を私たちはすでに選択したのです。
少なくともその時点では最良の選択だったはずです。
頭で考えれば。
だから、何か具体的な理由がない限り変更する必要はないはずです。
理屈で言えば。
ただ
「この方法が最も良い。このようにやってみよう」
と自分自身で決めたとしても、少なくとも可能性としては(それより良いはずはないんだけれども)それ以外の無数の選択肢もあるっちゃあるわけで……しかも、もしかすると、もっと効果的で、短時間で、もっと楽で、もっと面白くて、苦労が要らない……そんな方法も(今知らないんだから本当は考えても意味ないんだけれども)絶対ないとは言えないぞと。
自分は、自分が選択してしまった方法以外の、他の無数の方法を選択することだって本当は自由にできたはずなのだと。
繰り返しますが、この時、事実そういう方法が存在するかどうかは関係ありません。
その、
「自由であったはず」
「他の可能性もあったはず」
という観念そのものに対して、人の心というのは眩暈(めまい)を起こしたようにクラっと反応すると言っているのです。
実際の根拠ではなく、単に「可能性」という概念に対して心が勝手に反応するのです。
それが今湧き起こっている不安の正体です。
……これは自然に起こりますが、基本的には対処する必要のない不安です。
何か対処しないといけないと考えるから余計不安になってしまうのです。