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「それは在る」を読んで思ったこと

1 この世界が「在る」ということがすなわち神なのである

世界は「ワンネス」であって、二元論的な区別はどれも思考が生み出している幻想である。

たとえば「正しい」という観念それ自体がたゆまぬ変化の一時的状態にすぎないから、どちらが正しいかと問うこと自体が無意味なのである。

善と悪、自己と他者……といったすべてがこの理屈で説明できる。絶対有は絶対無と同じこと。つまり「在る」という存在そのものが神である。

すべてが「私」である。もしくはすべてが「私の一部」を演じている。私のために。

2 思考は悪ではない

言葉、思考とは、単に周波数の異なる様々な音である。ゆえに知的探求には終わりがなく、それ自体を目的としている限り迷い続けるばかりなのである。

ただし、思考自体に問題があるわけではない。湧き上がる思考に巻き込まれること、それを自分だと勘違いして、思考そのものを追いかけ続け、考え続けること……すなわち、思考との誤った自己同一化が唯一の妨げなのである。

悟ろうと欲する人はたいてい、思考から離れ、思考そのものを捨てようと努力する。

しかし、悟りを開くために思考や観念を排除しようと力むことは、既存の観念を「思考や観念を悪と決めて排除するべきだ」という新しい観念に置き換えただけである。

3 悟りの過程

神秘体験や至福感が真理なのではない。どんな体験だとしても、体験とはそもそも幻想世界のものでしかないからだ。真理とは理解であり、自己認識なのである。

目覚めた者は知覚可能なものはどれも自分自身ではないということを完全に認識している。

自我(エゴ)の強い人間は、他者に「もっと求めよ、そうしなければお前は幸せになんかなれないよ」と言うが、その本人こそ、どこかにあるだろう幸せを求め続けている。自分が求め続けているがゆえに、他者にもそうしろと言う。答えも知らないくせに。それは結局すべてを自分の分身に変えたいのだ。

悟りを開く唯一の方法は「方法はない」という方法である。

真我は思考しない。よって思考はあなた自身ではない。またゆえに行為者なんかであるはずもない。すべては自動的に起きている。それはただ起きているだけだ。

私があれこれに気付いている、という感覚があるなら、あなたはまだ見逃している。

4 今ここ、ということ

思考とは記憶であり、ゆえに過去である。認識あるいは意識もまた過去。ゆえに思考や認識から脱しない限り本当の今を生きてはいない。

また、過去そのものすら実は確定的な何かではない。

世界は本来、今ここにある「これ」だけなのであり、世界は本来意味がない。それに意味づけしようとしているのは常にあなた自身の観念であり、解釈であるにすぎない。

そして、ゆえに(あなたが感じる幻想の)世界はあなたが意味づけした通りになる。

たとえば、もともとこの世に悪が存在するのではなく、アプリオリに善悪という観念が存在しうるとあなたが思っているから、世界に悪が起こっているように見えるのである。

あらゆる観念について、それを否定するということは「それが実在することを信じて、回避しようとすること」になる。

だから、否定し排除しようともがくほどこの世界が確固たるものに見えてくる。

そうではなくて、それら観念の中にありながら、それを手放して寛げばいいのだ。

隠遁するのではなく、世間の中に留まれ。しかし世間の中にあって、そこの住人になってはいけない。

世界で遊ぶのだ。

あなたが悟れば、遊び方もわかるだろう。

5 赦し

赦しとは、「あなたは本来責められるべきであるけれども、責めないで置く」という意味ではない。赦しとはそのように誰かを評価することでもないし、我慢や自己犠牲でもない。

赦したほうが偉いわけでもないし、赦されたほうが悪いものだということでもない。尊卑とか善悪といった観念を含むならば赦しではない。

我慢する理由も存在しないところ、すなわちいかなる観念も概念も意味がなく、本来存在しないものだと知ることこそ、赦しなのである。

つまり、赦すと言うのは観念を手放すと言っているに等しい。

6 苦しみとは

苦しみとはつまり抵抗である。

人生で実際に起こることが、「これはこうあるべきだ」というあなたの理想や観念と異なる時、そこに抵抗が生まれる。

「こうあるべきなのに、そうなっていない」
「こうなってほしいのに、そうならない」

それが抵抗であり、苦しみの正体だ。

つまり、苦しみの原因とは

「自分の思い通りになってほしい」

という考えにあるのである。

起きることは自動的に起きていく。その流れをあなたが変えることはできない。

この幻想……つまりこの世界とは、我々の進化成長のためにあり、歓びのためにある。

それなのにこの世界を苦しみだと感じている……それはいわばスタート地点にすぎない。

そして、本当は苦しみなんて存在していない。苦しみとは単に私が見ている私の考えに過ぎないのだから。

7 悟りについて

実は「悟り」という結果=答えが重要なのではなくて、人がそもそもから持っている悟りを離れて、いずれまたその悟りに帰ってくるという「プロセス」こそ大切なのであって、であるからこそ、悟りそのものには対して何の意味もないのである。

8 確認書のようなもの

通常、この手の話というのはすでに体感的に分かっている部分しか分からないという意味でほとんど無意味である。

まったく、悟りとはそういうものである。

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