線は分岐する

ところで、線の思考は必ずしも一本道ではありません。

線の思考について観察してゆくと当然に

「分岐」

を想起することになります。

自分が持っている概念のかたまりがあるとき、そこから論理的にまたは主観的に結びつく知識や情報はむしろ多くの場合複数同時に現れます。

感覚的にはむしろ無数にあると言ったほうがいいかもしれません。

論理学の教科書などでたいてい最初に出てくる

「AかつBである」‌
「AまたはBである」

というのはどちらも分岐を表します。

「かつ」というのは英語なら「and」に当たります。

つまり物事が2つ以上同時に成り立っているということを表します

並列的な分岐と呼ぶことができます。

少し注意しなければいけないのは、これは文法的に言ういわゆる

「順接」
「逆接」

とは違うということです。

たとえば

「今日は雨だけれども用事で出かけなければなりません」

という場合、逆接なので一見対立する条件のように感じるかもしれませんが、この場合も

「今日は雨(なので出かけたくない)」

けれども

「用事で出かける」

という意味ですから並列的な分岐の型をしていることに変わりはありません

これに対して「または」というのは選択的な分岐と呼ぶことができます。

2つ以上の物事のうちどれかがひとつだけ成り立つことを表します。

英語では「or」に当たります。

たとえば

「今日は雨だから出かけようかどうしようか迷っている」

という場合には

「出かける」

または

「出かけない」

のどちらかを選択するという意味ですよね?

ちなみにこの場合の「今日は雨」の部分はある意味

「出かける」
「出かけない」

のどちらかと並列すると考えられなくもないですが、ふつうは選択に関わる

「条件」

と位置付けられて、そもそも分岐の概念から外される形になるのが自然でしょう。

分岐すべきか?

前に述べた鎖の論法も、実は途中で分岐することが可能です。

やろうと思えばですけど。

ごく重要な問題や一見錯綜してとらえどころのない課題などに直面したときにはあえて分岐を含めた展開を試してみることもできます。

ただ……実際にやってみると分かりますが、選択肢を思いつくままに分岐してゆくと予想以上に多くなって何のためにやっていたのだか忘れてしまうくらい時間がかかってしまうことになります。

少なくとも日常的に行うには煩雑すぎて便利とは言えません。

また、人生の一大決心というような重大な場面であってさえ、緻密さ、厳密さを意識するあまり何でも思いつく限り分岐していけばいいというものではありません。

思考手順の目的は

「可能性を限界まで広げること」

ではなく、結局は目的に沿った最善の選択と実行です

思考の不足も問題ですが、かと言って過剰な拡散も思考を阻害することになります。

そのため、原則として鎖の論法は単線で十分だろうと思われます。

自然に複数の理由が浮かんだ場合など、どうしても選択に迷った場合でない限り分岐は最小限にしておくべきだと私は思います。

アンカーを駆使する

分岐しても多くの場合、結局は

「集約的アンカー」

が多く出現することになります。

慣れてくると分かりますけど、むしろ鎖の輪一つひとつを十分な潔さと慎重さを持って、その時点ですでに自ら選択しているということを意識すべきです

他のどんな思考法についても同様に言えるポイントですが、とにかく常に具体的な思考を行うことを意識するべきだと私は思います。

たとえば、その思考法の正当性を証明しようとしたり、緻密さや完全性を追及しすぎたりすると……もはや建設的な思考ではなく思考遊戯に近くなってしまうのです。

もちろん分岐は自覚できる範囲でも常に起こりますが、実際にはどっちみち、今あなたが自覚している以外にも見えていない無数の分岐が存在しているに違いありません

仮に自分が考えうる限りのすべての選択肢を挙げられるだけ挙げてみたところで……それはやはり「すべて」ではないはずです。

その前提で思考することが必要でしょう。

ツリー構造

ある起点から分岐を繰り返してゆくと全体としてそれはいわゆる

「ツリー構造」

になります。

「ツリー」という名の通り、木が幹から先端に行くにしたがって次々に枝分かれしている様子を意味しています。

ツリー構造は、物事の分類や関連を表すかなり汎用的な方法論です。

ただし……木というのは不動のもののようなイメージが伴いますよね?

根から太く大きな幹が伸びて、そこから枝葉が分かれています。

だから一般にツリー構造はあらかじめ根本問題や対象物がはっきりしている場合には有効なのですが、たとえば、これから根本問題を発見しようとする場合とか、最初に置く設問が根本問題を発見するための便宜上の起点に過ぎない場合とか……すると後に起点そのものを置き換えて再構築しなければならなくなります。

この作業にはある種の慣れが必要でしょう。

いったんツリー構造を用いるとそれによって把握した構造に執着しやすいためです。

思考と選択

ニュースなどを伝えるテレビや新聞のことをイメージしてみましょう。

「一次情報」

としての客観性が問われる番組や記事では原則として事実をそのまま伝えようとします。

だからニュースを伝える人は、そのことを必ずしも思考しているとは限らないし、思考したとしても少なくとも自分の思考の結果をそのニュースに反映しようとは考えないでしょう。理念的には。

けれども、実は一次情報としてのニュースもすでに(他のことではなくて)それを取り上げているという意味では選択されています。

たとえ純粋に事実のみを伝えようとしたところで、世の中のすべての事実を扱うわけではなくて、特にその事柄について伝えようという意図をもった時点で思考を伴っていると言えないこともありません。

もちろん、人間が扱っている限り恣意とか思想的な判断とかを完全に排除できると考えるほうが非現実的でもあります。

その意味では、ニュースというのはすでに多くの人の思考を介して私たちの目の前に現れるのです。

何を排除すべきかを問う

次に、たとえばニュースを見ている私たちの側もそれを知識として蓄えておくならば、それはまったく自分の思考に寄与していないことになります。

また、たとえばその内容に対する何らかの感想や背景についての推測などが自然に思い浮かんだとしても……そこから何かを主体的に選び取ることを伴わなければ、少なくともそれは

「ひとつの思考として完結していません」

……そこからもう一歩進んで、そのニュースに関して何らか

「自分の意見を持つ」

ことで、初めてそれはあなたが思考した結果だということになります。

意見を持つという行為は裏を返せばさまざまに考えられる感想や推測や反対意見などの選択肢を自らの意思で捨てるということに他なりません。

つまり、他の選択肢つまり分岐を意識的に排除したという事実こそ思考した証なのです。

実は、これに限らず私たちが日頃何を思考しようとする時にでも、認知の段階ですでに思考する本人は

「今何を問題と考えるのが一番よいのか」

という意味での選択をしています。

つまり思考というのはその一連の流れの中で常に選択を繰り返すことです。

ツリー構造に対するイメージ

これに即して言うと……ツリー構造というのは

「今そこに書いたツリー」

が真の全体なのではないという見方もできます。

もちろん、あらかじめ基準や条件を限定したMECE的なツリーを書く場合であれば、その範囲ではそれが全体と言えるのですが、それにしたって、その基準や条件というのがすでにより広い範囲の物事の中から

「切り取られた全体」

にすぎません。

そのツリー図には表面上現われていない、まだ無数の枝葉が現実には存在する……という感覚を持てることは、ツリー構造を駆使する上での一種のコツだと私は思います。