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本記事は実際の診断や症例などに基づいた医学的な根拠ある記事ではありません。
あくまで「思考」に関する考察の一環としての思考実験にすぎず、何らかの実際的な効果を保証するつもりはありません。
うつ状態の改善に「思考法」は力を持つか?
いわゆる「うつ病」の多くは内因性うつ病と呼ばれるもので、表面的な症状として
「うつ的な思考傾向」
が顕著に見られます。
ただし、当然身体的な症状や主訴も同時に起こります。
本来のうつ病そのものは単なる「思考傾向」や「考え方」の問題だけで語られるべきものでもないでしょう。
その前提で、ここでは
「うつ的な思考」
について考えてみます。
うつ状態における極度のネガティブ思考
単純に「思考の傾向」という面に限って見るならば……うつ的な思考とはもちろん
「極度のネガティブ思考」
だと一言で言い表すこともできると思います。
だから、ふつうごく一般的にはうつ的な思考を持つ人に対して多くの人は
「もっとポジティブに考えなよ」
「あんまり自分を責めないで」
「くよくよ考え過ぎないで」
「もっと楽に生きたら?」
というようにアドバイスしたくなる(言わないまでも、ふつう健常者はそう感じる)ものです。
しかし……このようなある意味まっとうな解決策が通用しないのがまさに「鬱病」なのであり、それができればそれ自体がすでに「うつ的ではない」わけで、多くの場合
「本人も頭では分かっていながら、どうしてもそういう方向に思考が進んでしまう」
ところにうつ的思考の厄介さがあります。
このあたりの認識は最近ではすでに一般にもかなり理解され、定着しているように感じます。
うつ的思考の内容
最近特に話題になっている
「新型うつ」
の場合は少し違うようですが、少なくとも私たちが一般に「うつ病」という場合にイメージする
「ネガティブさ」
というのは、症状として分類しようとすればこんな感じです。
① 悲観的
「うつ病こころとからだ」をもとに整理
② 不安、焦燥
③ 希死念慮、消滅願望
④ 興味の喪失
⑤ 意欲低下
⑥ 過度の内的帰属、罪責妄想
⑦ 思考抑制、理解意欲の低下
また、うつ病者のマイナス思考の対象というか、方向性を観察すると
① 自己に対する悲観
―「精神療法の実施方法と有効性に関する研究」より抜粋
② 周囲に対する悲観
③ 未来に対する悲観
というふうに分析することができます。
実際の診断や治療をする立場から見るとこのような区別というか分析は有意義なものでしょう。
ただここでは単に「思考」「考え方の傾向」を問題にしているので、その立場から見ると……実はこのような内容的な区別にはあまり意味がないかもしれません。
「うつ的思考」の特徴はむしろ、どんな内容、どんな方向性について現れるかという問題よりも、とにかく何であれ思考すると必然的に
「マイナス思考」
「ネガティブ思考」
の方向に進んでしまうということ、それそのものが特徴だからです。
健常者でも「ネガティブ思考」そのものは理解できる
ここでひとつ言えることは、仮に健常者であっても……つまり特に「うつ的思考傾向」を持たない人物であっても、マイナス思考とかネガティブ思考というのは
「理解はできる」
という点です。
つまり、思考の過程でそのようなネガティブな方向に物事が進んだり、結果が思わしくない方向に進んだりする
「可能性がないわけではない」
ということを頭で理解することはだれにでも可能です。
何事につけ、
「不運な目に合ったり」
「状況が望まない方向に進んでしまったり」
「予期せぬ突発的な問題が起こったり」
……こういうことが起こる可能性が皆無ではないということは言われなくてもだれだって知っているはずで、それ自体が想像すらできないというような人間はほとんどいません。
多くの人は
「人生には予期せぬことも起こる」
「思い通りにならないこともある」
「良いこともあれば悪いこともある」
という感覚を当たり前のものとして受け入れていると思います。
これはふつうです。
ですから、マイナス思考というのはそこに問題があるのではなくて、はっきり言えば
「より悪いほうに蓋然性を感じる」
ということが真の問題です。
「鬱におけるネガティブな思考」について考察する
あくまで私見です。
その上で、私は以下のような推論が可能だと感じます。
蓋然性というのは、かんたんに言うと
「確からしさの程度」
というような意味です……つまりマイナス思考というのはあえて説明すると
「考え得る複数の想定の中で、常に悪いと感じることのほうが起こりやすいように感じる傾向」
のことと言えます。
繰り返しになりますけど……ネガティブな人だからと言って、別に
「それ以外の結果を可能性として想像することすらできない」
というわけではありません。
本人だって、良いことが起こる可能性も皆無ではないということくらいたぶんわかっているのです。
そこに考えが至らないというのはおそらくあり得ないことでしょう。
ただ……常に
「どうせ悪いほうに転がるに決まってる」
というような固定化された観念があって、だからいつもマイナスなほう、よりネガティブなほうの蓋然性が高いと思い続けるということでしょう。
結果、仮に良いことが起こったとしても
「こんなのは続くはずがない」
「こんなのは偶然だ」
「これは非常に稀な事象だ」
「次はきっと悪くなる」
というふうに解釈することになります。
そして
「自分には圧倒的に悪いことのほうが多く発生する」
という観念をひたすら曲げずに、ある意味固守しているのです。
うつ的思考は実は「より良い」想定を基準にしている
しかし、そう考えると少し不思議なことがあります。
それは、上記のような思考を辿るには、その過程で必ず
「もっと良い結果」
「より良い事象」
というのを想定する必要があるということです。
思考の過程で、
「より良いほうの想定」
と
「より悪いほうの想定」
が並列しなければ選択することができませんし、それを「悪い」と評価することもできないからです。
……これって裏から見ると
「本来こうでなければならない」
「本当はもっと、こうなるべきだ」
というような想起が常に同時に存在しているという意味ではないでしょうか?
おそらく、うつ的思考に陥る過程では、むしろ当初は内面では異常に高い基準を持っていた可能性があります。
つまり、もともとごくふつうの感覚から見れば
「あり得ないほど高い自己イメージ」
とか
「あり得ないほど恵まれた境遇」
「人一倍強い運気、運勢」
といったものが自分にだけは特別に保証されるべきだ、当然得られるはずだ、というような、極端に言うと一種の異常な自己愛、過剰な自己尊重欲求、あるいは差別意識、エリート意識のようなものが根底にあった可能性が高いわけです。
そして、もちろんそれとの比較で言えば、現実には常にそれよりは
「良くない」
結果ばかりが起こるでしょう。これは当たり前のことで、むしろ最初の「期待度」「自分の基準」のほうが度を超えて高かっただけ、ということです。
つまりうつ的思考の傾向がある人というのは、こと自分自身の範疇のことについて
「これくらいでいいや」
「まあこんなもんだろう」
というふうに思えない性質を抱えており、無意識にそれとの比較で現実を見ようとするので
「いつも(本来自分が期待していたよりは)悪いことばかり起こる」
という感覚を繰り返し経験しているうちに、それが固定化してしまっているのではないかと推測することもできるわけです。
もちろん、実際に家庭環境などの影響で、一般にごく普通に期待できる程度のことさえ満足に得ることができなかった……といった気の毒な状況も考えられます。
ですから、今言った推測はもちろん全員に当てはまるとも言えません。
しかし、おそらくいずれにしろ
「本人が期待したものと、実際に与えられるものとのギャップ」
というのが、マイナス思考、ネガティブ思考が固定化する大きな要因になっているという推測は成り立ちます。
「思考法」によって対処できるか?
さて、一応私なりの分析を前提に、それではこのようなうつ的思考を克服するために、それを改善するために、何らかの「思考法」が適用できるだろうか? ……と考えたとき、上記の通りまず
① 自分自身が本当は「何か」を強く期待している
という点を再認識することが有意義だと私は感じました。
最初に書いたように、うつ的症状の顕著な例として
「興味の喪失」
「意欲の低下」
が挙げられていますが……まず自分が本来は、本当は(むしろふつうの人以上に)何かを強く望んでいるのだ、期待しているのだ、欲しているのだ、というふうにはっきり認識することは必要なことだと思います。
次に想起する点として
② 自動思考を「自分の考え」だと思わないようにする
ことが有効だと感じます。
「自動思考」というのは主には認知行動療法で用いられる概念ですが、ふつうに言えば
「勝手に思い浮かんでくる考え」
のことです。
特にうつ的思考傾向の持ち主が実際に日々「考えている」事柄というのは、そのほとんどが自分で意識的、主体的に考えようとして出てきたものではなくて、むしろ考えたくもないのに自分の中から勝手に湧き起ってくる
「考えのような形のもの」
というほうが近いのではないでしょうか?
特に、ひとつの出来事(それはふつうの人からすれば一見取るに足らないような些細なことでさえ)何度も何度もくよくよくよくよ考えを巡らせたりしてしまうことがあり、これは
「反芻思考」
と呼ばれたりもします。
自分の内面を観察すれば分かると思いますが……反芻思考というのは一見すると自分が意識的に考えているように感じるかもしれませんが、実際は勝手に何度も何度も湧き起ってくる解釈や想像などに
「反応しているだけ」
です。
よく考えるとこれは自分が主体的にものを考えている場合とは違って……自動思考とや反芻思考というのは、実は考えたくもないのに
「考えのようなものが浮かんでくるから仕方なく付き合っているだけ」
の受動的な、受け身な思考と言えます。
さて、ところが、実際はそうであっても少なくとも自分自身の内面で、自分自身の中から浮かんでくるものなのだから、人はそれを当然
「自分自身の考えだ」
というふうに認識します。あるいは
「自分の心の声だ」
とか
「深層心理や潜在意識が発したものだ」
とかですね……。
言い方はさまざまですが、要するに
「自分自身がそう感じている」
「これは自分の考えだ」
と。
まあ当然というか、自然なことではあるのですが……しかし、実はその考えこそ疑ってみる必要があるのです。
「自動思考」は「自分の考え」ではない
実はこう考えることもできるのです。
自分の中から浮かんでくる思考やイメージの多くは(むしろほとんどは)……過去に外部から取り入れ、蓄積している記憶の産物です。
たとえば、今まさに自分が何かを意識的に「考えよう」と思って考えている場合ならひとまず自分自身の考えとみなすこともできますが……心の中から勝手に湧いてくるような「思考のかたまり」みたいなものというのは、実はその多くが
「だれかに与えられた情報」
「外部から知らないうちにインプットされた知識」
の記憶に過ぎません。
その多くはそもそも「自分が考えたもの」ではありません。
また、仮に過去自分自身が考えた思考過程をもう一度なぞっている場合もあるかもしれませんが……それすら、少なくとも
「今のあなたが今考えたこと」
ではありませんよね?
自己とは何か?
自分自身とは誰なのか?
……こういった高度に哲学的な問題は容易に答えの出るものではありませんけど……でも、仮にそのような意味での
「自己」
「自分自身」
というのが存在すると仮定しても、
「自動思考、反芻思考というのは、そもそも現在の自己自身が思考した結果ではありません」
少なくとも自動思考や反芻思考を「自分自身の考え」だと素直に感じてしまっているのが大きな問題と言えます。
ある意味、自分の内面から湧き起る自動思考について、自分に責任があるというふうに単純に受け入れていること。そこに疑問を持たないこと。
それがうつ的思考傾向の遠因、むしろおおもとの大きな原因になっているのではないかと……私にはそう思えるのです。
心理療法でいわゆる「コラム法」という方法論があります。
物事に対する解釈、特に本人が持っているエピソード記憶に関する解釈の仕方を変容することを意図した方法です。
ただ、本人がもともと持っている過去の記憶や、それに付随する解釈をかたくなに守ろうとする傾向が強いと、それはなかなかうまくいきません。
そのような場合、おそらく本人は
「過去の自分自身を捨てるような感覚」
に苛まれるのです。
それが強い不安感や、ある種のさびしい感じ(喪失感)を引き起こしてしまうので手放せないのです。
でも、よく考えるとそもそもそんなものは
「自分自身」
でもなければ
「自分の心」
でもないのです。
それは、はっきり言えば
「いつの間にかあなたの内部に侵入してきただれかの考え」
以上のものではないはずです。
あなた自身の考え、というのは本当は、今あなたが意識してそれを考えようと思って思考した場合にしか出てきません。
それのほうがよほど純粋な「あなた自身」なのではないでしょうか?
③ そもそも「メタ認知」を意識する
より前提的な話になりますが、そもそも今自分自身が置かれている状況なり、今現在の自分自身の姿、その評価なりを一歩引いて俯瞰することが大事です。
おそらくうつ的思考傾向の人はそのように自分を引いてみるということが苦手なのかもしれません。
あるいは心理的、精神的に追い詰められた結果、引いてみる力や余裕がなくなっている。
自分のものの感じ方やものの考え方を客観的に観察したり分析したりする思考の働きを
「メタ認知」
「メタ思考」
と呼びます。
もし分かりにくかったら、たとえば以下のような
「置き換え」
を試してみるのも良いでしょう。
今のあなた自身と同じ状況にいる「他人」を見たら、あなたはどう思うのか?
あるいは、あなたが今よりもっと元気だった頃(若い時、あるいは子供時代の自分)が、今のあなたの姿を見たら、何をどう感じるだろう?
何と声をかけるだろう?
④ 「行動」「結果」「解釈」の流れを意識的に体験してみる
もう一つ。
多くの場合、極度のマイナス思考、ネガティブ思考というのは
「物事の解釈に関する認知のゆがみ」
として扱われます。
それで、もちろん「解釈の仕方」に主な原因があるわけですが、その前に、そもそも
「何らかの行動(や事象)」
↓
「その結果」
↓
「それに対する解釈、評価」
というのは流れとしてはごく自然に推移するひとかたまりのものに見えるようでも、本当は
「それぞれが独立した別個の事柄だ」
と言えますよね?
仮にあなたがどんな意図で、何を期待してその行動をしたか……ということとある意味無関係に「結果」はどう出るか分かりませんよね?
結果を完全に予測することもできませんよね?
そして、どんな結果であれ、あなたはそれについてある意味どんなふうにでも解釈できますよね?
当然、行動も自由ですし、結果は決まってませんし……その解釈も自由です。
これらを「別々のことだ」と認識する必要があります。
うつ的症状の人はある意味で、あらかじめ選択しうる最悪の結果を予測して、むしろそうなるように行動して、そのとおり最悪のことが起きたと解釈して……安心するのです。
言ってみればマッチポンプみたいな感じです。
この一連の流れがもうきわめてスムーズな「ひとつのお約束」「ひとかたまり」になってしまっているわけです。
これを一回ばらばらに切り離してみましょう。
具体的には、とりあえず小さなことでも、ごく日常的なことでも良いので単純に
「今やりたい事は何だろう」
と考えて、それを素直にやります。
その時点で何ら「成果」や「結果」を期待しないで。予測もしないで。
たとえば
「買い物に行く(行動)」
↓
「これを買った(結果)」
あるいは
「部屋の片づけをしよう(行動)」
↓
「部屋が少しきれいになった(結果)」
……という感じです。
そしてその「結果」に関する
「解釈」
なのですが、今までみたいに、何か大きな達成感を得たいとか、他人に提示するべき成果のようなものがあったとか……そういうことをいちいち考えなくていいです。
単に、自分がやりたいことを実際にやると、それをやったという事実そのものが「結果」として起こる。
まずそのことだけを実感してみてください。
その事実だけをゆっくり、十分にかみしめたら……その後で、それについてああだこうだといろいろ「解釈」や「評価」をいちいち付けなければならないと勝手に信じ込んでいたのは、あなた自身なんだということを思い出してみてください。