アドラー心理学がブームになったことで

「優越コンプレックス」

という言葉が認知されるようになりました。

ただし、一般概念として優越コンプレックスとは呼ばなかったかもしれませんが、言われてみると確かにそういう心理傾向を持つ人というのはかなり多くいただろうと想像されます。

優越感を育てる(?)

個人的な印象かもしれませんが、一昔前までの教育って、むしろ子供に優越コンプレックスを植え付けようとでもしているかのような雰囲気があったようにも記憶しています。たまたま私がそういう印象を持ってしまっただけかもしれませんが……。

でも、世間一般にも

「まあ、ふつうだね」

と言うときの「ふつう」という言葉は、あまり良い意味とは言えませんよね?

とにかく、そう思って振り返ってみると、確かに以前の私はまさに優越コンプレックスのかたまりにような人間だったと言わざるを得ません。

以前の私にとっては「ふつう」というのは即ち

「レベルが低い」

ということであり、

「軽蔑すべきもの」
「恥ずかしいこと」

というようなイメージがありました。

ふつうになってはいけないという気持ち

だって、私は特別な人間、特別な成功を収めるべき人間なんだから……その目線で見ると当然そうなるわけですよね?

今考えると、これは非常に幼稚な心理だったと思います。

これは本当に、自分で言うのも何ですが非常に不遜で高慢ちきな、同時に一面的で理念ばかりに偏った現実性のない考えです。

……しかし、ある意味では、つまり人間が一般的に成長過程で辿る心理の推移という意味では、これも別に私だけに限った話ではないのかもしれません。

最近では一気に有名になった感のあるアドラー心理学ですが

「優越コンプレックス」

というのは、優越と言いながら要するに劣等感の裏返しであってコンプレックスであることに変わりはありません

実際にはぜんぜん「優越的」じゃないのです。

しかし、少なくとも自分の中で何か他人より優越していると感じたい、あるいは他人からそう見えるように演じようという心理なので、少なくともその本人の主観としては基本的に

「自分は他者より優越している」

と感じているところが少しややこしいですね。

それだけに、周囲の他人も、ともするとその人を「優越的な立場」だと見做して接する場合があります。だから余計ややこしいのです。

優越コンプレックスを持つ人の特徴

優越コンプレックスを持つ人の心理や言動には

自分が優越しているように見せたがる
他人からの評価を気にする
逆に自分を貶めることで注目を集めようとする
むやみに高い理想を求めようとする

といった特徴があります。

こうやって並べると、

「え、どうして私のこと知ってるの?」

……って感じなのですが(笑)

特に、上で書いたように私は、

「私はふつうじゃない。特別な人間にならなければならないんだ!」
「こんな、ふつうの人たちといっしょでたまるか!」

……というような気持ちをかなり小さい頃からずっと持ち続けていたわけですから、まさに典型的な優越コンプレックス人間だったと言えるでしょう。

優越コンプレックスは空想にすぎない

その頃私が言っていた

「私は成功する人間のはずだ」
「私は大きな成功を成し遂げなければならないんだ」

というような思いは、実は本当に何が具体的な目的や目標があるわけでもなく、どうしても実現したいことがあるわけでもありません

要するに、単になんでもいいから何かすごいことをやって、

「他人に認められたい」
「優秀だと思われたい」

というだけのことだったんだと今は思います。

そのために、むやみに高い理想を追い求めて……いや、求めているような気分になっていただけなのです。

具体的何か努力したり、挑戦したりするわけでもなく、ただ心の中で、頭の中で

「いつか成功しなきゃ……成功しなきゃ……」

と呪文のように唱えていたわけです。

ふつうの人の像

とにかく、書くのも恥ずかしいのですが、あえて正直にその時の私の内面を吐露しますと……。

私から見ると、

「ふつうの人」

というのは、

「常に利己的で、視野が狭い、思いやりがなく、仲間内で群れる」
「安易で短絡的な判断しかせず、物事を深く考えない」
「享楽的で、快楽やその場の楽しさばかり求める」
「自分の意見を押し通し、都合の悪いことは否定し、他人に無関心」

とか……。

たとえばこういうのが、私が当時感じていた

「ふつうの人像」

です。

今あらためて考えると、

「それ、ふつうに考えてぜんぜんふつうじゃないだろ!」

と自分ツッコミたくなりますけど(笑)

そしてその時の私と感じ方としては、ふつうの人というのは、怒りが湧き起こるというよりは私を悲しいような気持ちにさせるような感じ。

嫌悪というより救いがたい諦めのような、憐みのような感情を引き起こす人たち……それが「ふつうの人」という感じ。

何というか、たとえばこういう人たちに対して怒りや嫌悪を露にしたら、そうしている自分までふつうの人たちと同じ土俵に上がってしまうような気がしていたのです。

変な遠慮というか気遣いというか、自覚的にはそういう感覚……しかし、客観的に見ると私はたぶんそこに自分なりの優越感の置き所を持っていたのでしょうね。

ただ、これに自分で気が付くにはかなり長い年月が必要でした。

ふつうであることの絶望

今考えると、私に接してくれた周囲の多くの人たちに対して、なんて申し訳ないことを思っていたのかと内心とても恥ずかしくなります。

もちろん、特定の気に入った人とか親しくなった人だけは逆に著しく美化していたりもしました。

バランスを欠くというか、要するに自分本位の身勝手な評価をしているだけなんですが、とにかく、そのころの私の眼にはほとんどの人間が「絶望的にふつう」に映っていたのでした。

ただ、もう少し大人になると、特に自分も社会に出て仕事をするようになると気が付いてくるんですよね……これはあまりに表面的で、偏った子供じみた見方だったと。

それに、時とともに……そもそも私自身がその「絶望的にふつう」な人間にすぎなかったんだということを認めざるを得なくなるわけですよね。

結局のところ、これは自分の内面にある、自分自身が一番見たくない部分を直視せずに、それを自分の中で分裂して、他人に投影して批判していただけなんだと分かってしまうんです。

それは私なりの防衛機制だったのです

これは心理学的には

【分裂】
自己と他者の肯定的な特質と否定的な特質の両方を現実的に全体として捉えることができない心理状態。

【投影】
自分の中の認めたくない衝動や資質を、他人のものと認識することで自分を守る。

……といったものです。

要するに

「防衛機制」

の一種であって、多くの人がそうであるように私もまた結局のところ、そのような下手なやり方で自分を守っていたんですよね。

ですが、これも当然と言えば当然なのですが、その後に来るのは絶望的な

「自己否定」
「自己嫌悪」

ということになるのです。

まあこれは反動みたいなものだからある程度仕方ありません。

私も、

「ああ、自分はなんと愚かだったんだんだろう」
「どうしてこんな考えに凝り固まっていたんだろう」

と一時期は非常に落ち込んだこともあります。

自分のほうがどうしようもない、もうそれは「ふつう」を通り越してそれ以下のダメ人間みたいに感じるんですよね?

そりゃそうですよね。今まで他人に投影していた短所や悪い部分を、一気に全部自分のほうに引き受けなきゃいけないんですから。

自分を責める自分を解放する

ところが、そのようにして自分を責めたり、軽蔑したりしても……まあ何にもならないんですよね?

それで、もちろんすぐに辿り着いたわけではありませんが、結局私が今に至って私なりに考えた結論のひとつは、まず

「善悪という価値観」

についての自分の見方を修正することです。

「ふつう」というのは別にそれをもって直ちに善でもなく悪でもないと……そう考え直したんですね。

言ってみれば当たり前ですけど。

次に、イメージとして私は

「ふつう」

という範囲を今までより大幅に(ある意味極限まで)広げることにしたんです。そして、もちろん私自身もそこにいます。

さらに明確に言うならば、今私は、そもそも

「ふつう」=「特に何でもない」

という意味だと認識しています。要するに、ふつうという言葉は、何も表さない言葉だということです。あるいは「ふつう」という特定の範囲が存在するという観念は錯誤だと思っているわけです。