善行とは?

「善行とは?」
「善い行いのことです」

それは分かってます。

ですよね?

「絶対善」の意味

純粋な善とは何か? 私の行いは本当に「善行」と言えるのか?

ある人は、純粋に善と呼べる行為なんて、現実の人間社会ではほぼ不可能な理想でしかないと考えているかもしれません。

世の中の一見「善らしく」見えるものはすべて偽善であって、真の意味で善行と呼べる行いなど人間には不可能だとか。

そのように「善行とは何か」を尋ねる人は、純粋な善行と、一見善行らしく見えるものとの区別というか、その境目を見極めたいと感じているのです。

しかし、私はむしろ、善行はだれにでも今すぐできる、非常にかんたんなことだと考えています。

……その意味を深く思索し追究したいと思う人ほど、それは非常に難しく深遠なものだと考えてしまう傾向があります。

すると、その心はおそらく純粋な善から次第に離れていきます。

なぜなら、私の考えでは善行とは別に観念的なものでも理念的なものでもあり得ないからです。

それは実行が困難なことでもありません。複雑でもありません。もしかしたら、多くの人がそれと自覚せずにいつの間にかやっているかも……。

私は、むしろそういう行為でなければ「善行」とは呼べないのではないかと言っているのです。

祈る人

善行とはだれでも日常的にできる現実の行為です。

というよりも……人間は日常的に今すぐにでもできる範囲のことでしか善行と呼べるような行為をすることはできない。

純粋な善意とは、いわば「気まぐれ」のこと

世の中でしばしば取り上げられる慈善活動や、一般的には善良に見える行為は、むしろ本来は「善行」とは言えないかもしれません。

その理由は、それらの行為には、往々にして何らか別の意味、意図が含まれているからです

別の意味というのはもちろん、たとえば見栄、虚栄心、嫉妬や猜疑心、あるいは甘言、謀略や罠……といった、そもそもあまり褒められたものではない意図をもって行ういわゆる「偽善」に当たるものがあります。

しかし、それだけではありません。

「一般には良いように思える意図」

であっても、ダメなのです

たとえば

「どうしてもその人を守りたい」
「世の中をもっと良くしたい」
「高潔に生きたい」
「神仏の御意思に従いたい」

……といった(これらはどれも非常に「善い」ことに見えます)ものであったとしてもです。

それは「善意」とは違います。

そのような「特別な意図」がまったくない、ほとんど気まぐれに近いような善意。

私は、厳密にはそれだけが善意と呼ぶにふさわしい本来の意味での善意ではないかと考えます。

個人に可能な善行とは?

ところで、もしそうだとすると、善行とは、もうひとつ条件があるのです。

それは、今あなたがしようとしているその行為というのが、自分にとってはやろうと思えばいつでもすぐにできるような非常に容易なことでなければならないということです

善行とは、その行為の対象や環境、条件や予測などが容易く自分の管理下に置けるような範囲のものでないと成り立たないということです。

ふと気まぐれに行っても、自分が意図しないようなおかしな結果や影響が出たりしないという確信がない限り、それは善行を意味しないわけです。

そういう条件下でこそ、あなたはそれに

「単なる善意」

つまりそれは限りなく気まぐれにも似た、ある意味安易な気持ちでいつでも対象に干渉しても……大丈夫なわけです。

いくら「善かれと思って」やったとしても……自分の予測が的外れだったり、予期せぬ事態に発展したり、あるいは自分の力の限界を超えた結果を期待していたりしたら、それは善行を意味しません。

その行為に何かしら単純な「善意」以外の意図、あるいは期待や願望が含まれているからです。

だから、それは「単なる善意」ではありません。

だから、今言っている意味での「善行」でもありません。

念のため言っておきますと、別に、だからやってはいけないという意味ではありません。むしろそれは非常に人間的な、時には崇高な意思によるものかもしれません。素晴らしい行動であり称賛に値するものも多くあるでしょう。

しかし、私はそれは善行ではない、善行とは別の行為だと思う……と言っているのです。

芥川龍之介の蜘蛛の糸という話は非常に人気があります。

蜘蛛の糸のあらすじ

この話の非常に示唆的な部分は、実はこのお話の中でカンダタが生前行った、

「気まぐれに一匹の蜘蛛を助けた」

というその行為……それこそまさに、ここで言っている意味での純然たる「善行」に当たると解釈できるのです。

そしてお釈迦様はなぜカンダタのために蜘蛛の糸を垂らしたかというと、大悪人であるカンダタのたった一つの善行、それが、実はそれこそが純然たる「善」であったからです。

だから、お釈迦様もまたそれに対して善行によって報いることができたわけです。

これと比較すると、他人の目から見て善と見えることであれ、あるいは、自分では善的な動機で行ったことであってさえ、それが純然たる善と見做されない場合も多々あり得ることになるでしょう。

象徴的に言うならば、あなたの頭上に垂らされる蜘蛛の糸の本数は、あなたがそのようにして行った善の回数ということになるでしょう。

「善」とは、あくまで行為の種類のひとつ

同時に、この意味で、善とは個別具体的な行為を指すのであって、善行というものは想定できますが、たとえばお釈迦様のような

「常に善であるような存在」

あるいは

「そもそも善であるような生き方」

というのは人間的な意味では考えられません。

今の論旨に合わせるなら、やることなすこと全部が「善行」であるような状態というのは、自分の行いのすべてを容易に自らの管理下に置けるということであり、それはつまり同時にその人が「全知全能」であるという意味になってしまうからです

人間的な意味での「善人」

たとえば世間一般に「善人」と思われているような人が、必然的に多くの善行をなし得るというような想定は、私の考えではまったく成り立ちません。

あるいは、ごく善良に一生をまっとうしたように見える人は、周囲の他者から見れば確かに善良であったかもしれませんが……その人の行為がすべて善行であったということにはぜんぜんなりません。

むしろ、その人は純粋な善行を一度も行っていない可能性すらあります。

逆に、世紀の大悪人だからまったく善行が不可能だとも言えません。どんな悪党でも大罪人でも、むしろそうであってすら善行とは日常的にかんたんにできることなのです。

私はそのように感じています。

観念としての善悪論について

そもそも、人間が行うすべての行為について

「いちいち相対的な善悪の程度を評価する必要はない」

のではないでしょうか?

私たちは単に、ほとんどの場合、善でも悪でもない営みに終始しているだけなのであって、しばしば、気まぐれに善を行うこともあるし、もちろん、しばしば悪を行うこともある存在にすぎません。

そして、私は昔から長い間、

「なぜ常に善人が損をするように見えるのか?」
「善はなぜいつも悪に対して力を持たないのか?」
「善はなぜいつも弱いのか?」

といった疑問を抱えていたのですが、今これに自分なりに答えるとすれば……。

まず善人とか、常に善なる状態といった観念がそもそも誤りで、現実の人間は善人でも悪人でもないからです。

それなのに、多くの人が何か他の動機や信念に支えられて常に善人であろうとしたり、あるいは他人を見て善人だとか悪人だとかいう評価をし続けるから、世の中がそのように見えてしまう。だから上記のような疑問が湧いてくるのですね。

そしてそれはやはり、多くの人がそもそも善悪というものについて二元論または相対論で思考し行動し続けているからなのです。

善悪とは何かを論ずる人が立っている前提について