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善悪という概念の定義について、私が仮に
「絶対的な善」
というのを定義するとしたら、それは、まさに
「蜘蛛の糸」
の中でお釈迦様がなさったような行為をイメージします。
つまり、絶対善とは
「気まぐれな他人への干渉」
でしかあり得ないということです。
善意とは、何の他意も含まれていないもの
絶対善とは本質的に、単なる善意以外の何らの動機も意味も含まれていないものでなければいけない……私はそれを善の条件と考えます。
また、その結果に何ら責任を持つ必要もなく、さらに言えば、何らの責任も感じる必要のないはずのものなのです。本来は。
だって、別に義務でも何でもないし。
むしろ義務だったら善じゃないし。
善かれと思って何かしてあげて、結果上手くいかなかったとしても、別になんにも悪くはないし。
ただし、もちろん、状況や認識を誤って余計な手出しをしてさらに状況を悪くしちゃったりしたら、それはもはや善ではないですよ?
この説によるならば、たとえば、自分の力を過信して中途半端に干渉して余計におかしな結果を招いたら、それは善とは言えなくなるんです。
また、そのように予見できないところにまで影響を及ぼそうという意図が含まれているというのは、絶対的に純粋な善ではなくて、何か別の動機や意図によるものということになります。
相手に委ねるべき部分に、介入しない
でも、自分には少なくともそれを可能にする十分な能力なり環境なりが整っていて、まあ妥当な範囲で、つまり完全に想定内のことに限定して単に手助けや援助をしてあげたり、物や、言葉や、あるいはチャンスなどを提供したりする行為……それは、その結果とは無関係に善です。
そして、それを受けた相手が積極的に活かそうが、むだにしようがそれは相手の勝手ですよね?
お釈迦様が垂らした蜘蛛の糸というのは、ある意味でまさにそれなんです。
つまり、お釈迦様からすれば、カンダタを助ける義務もないし必要もないんです。ただ、助けようと思えば助けることができる立場にあります。それで、ふと気まぐれにやっただけのことです。
これが絶対的な善の姿そのものなのです。
そして、カンダタが糸を切っちゃったことによって思惑通りの結果にならなかったからと言って、お釈迦様はちゃんと助けられなかった自分を責める必要もなければ、最後まで責任をもって助けなければいけないわけでもありません。
逆に言えば、お釈迦様はせっかくのチャンスを台無しにしたカンダタを責める必要もないんです。だから、糸が切れてしまった後、お釈迦様はただ少し寂しそうに立ち去った……それだけです。
たとえばここで、もっと確実に助かるようにとか、他の人間も含めて全員を改心させてやろうとかね……そういう「他意」を持ち込んでくると、それこそ「善」ではなくなってしまうと思うんです。
あるいは、地獄は地獄で成立しているところに、いきなり自分の強大な力を及ぼして大々的に介入したりとか……そんな意図をもって行動するとしたら、これももはや「善」ではないです。
でも、人間の立場から見ると、往々にしてそれを望んでしまうのですが。
これは、こちら側から見ているからそう感じるわけで、それをお釈迦様に要求することなどそもそもできません。
そして、そんな人間側の思惑を知ってそれに合わせてやる義務も、お釈迦様にはありません。
……と、このように考えたら、今回のお釈迦様の行為、ただ一本の糸を垂らすという行為。これこそ、お釈迦様が絶対的に、最高度に「善であること」の証明なんだ!
……と、私は妙に感動してしまいました。
偽善について
今ここには具体的に書きませんけど、これと比較して世間一般に「善行」と言われている行為や事柄は、これと比べるとどうでしょう?
時に偽善とバッシングされ、あるいは虚栄心の裏返しに過ぎないと揶揄され、あるいは罪悪感や自己の使命感に突き動かされたもの、打算だったり、懐柔であったり、押し付けであったり、支配の手段であったり……別にいいですけど。
これらは、お釈迦様に比べると絶対善とは言えません。
ただし、私はこのようなものを直ちに悪だとも思いません。
要するにこういった事柄の大部分は、実のところ善でも悪でもない、単なる人間の、きわめて人間らしい営みに過ぎないのです。
……しかし、では結局このような意味での本当の善行とは、お釈迦様とか、あるいは全知全能の神とか創造者といったものじゃないと不可能な「想像の産物」「非現実的な理想論」なのでしょうか?